10. 翻訳の始まり

ペニーのセッションを受けたのは1996年でした。
毎年日本にやってきます。
このときはもう「マヤンオラクル」が私の元に来ていてコスモで出版される予定があるというだけでした。まだ版権もとれていませんでした。
その予定すら会議の話題にもなっていない状態でした。
いったい、本になるのか、このまま没になってしまうのか……私は不安でいつも心配していました。
「マヤンオラクル」の訳はちょうど半分までできていました。

私はペニーに会うとすぐに「実は本が来ました」と予言が当たったことを告げました。
「そんなこと言いました?そう、よかったわ」ペニーはじつにあっさりと言いました。
「でも、この本は難産です。それにパーッと売れるような本ではなく、じっくりと長いことかかってみんなに読まれるようになるでしょう」
「ということはこの本は『本』になるのですね」、とにかく心配だったので「ということはこれは本になるのですね?」私は何度も念を押しました。
「それは大丈夫。ゆっくりだけど本にはなります。今から3年位はかかると思ってください。

それよりもこの本ができたあと、あなたは自分の生き方を自分の本に書くことになります。あなたの生き方を女性に知らせるのです。そのような本を書くことになります」と言いました。(ああ、まただ。そんなはずないよ。だって私は本なんて書く力ないもの。ペニーさん。)

K出版で働いているときはいろいろなことがありました。
なかでももっともうれしかったのは、社長が「マヤンオラクル」の版権を申請してくれたときでした。
これで本当に、もしかしたら本がでるかもしれない……と感謝しました。
翻訳の場合、まずユニエイジェンシーという代理店が版権を申請してくれます。

これは出版社がする場合は契約書を英文で作成して、それを相手の出版社に送り、相手の契約書が送られてくるので、それからその2通をお役所にもって行きます。
なかなか面倒です。そうゆう公式文書の英訳をする専門家があるのですが、コスモの場合は本の訳者がやっていました。
たった一冊その手続きを自社でしたのですが、あまりにも大変でそれからはやめてしまったようでした。
時差がある外国との電話のやりとりはなかなか大変です。

入社した年の9月、私はマウイに通訳を兼ねたスタッフの一人として、ツアーに同行しました。
著者のアリエールと初めて会うことができます。
写真を見ただけのアリエールでした。
私は自己紹介のファックスを流してから、関西のグループと成田で合流し、東京参加を含めて11人でマウイに向かいました。

アリエールの家に着くと彼女が出てきました。
見るとファックスの長い紙をもっています。「響、ここのところが分からなかった」と言います。私はぞっとしました。
自分の書いた英語が意味不明だったのです。冷汗がたらたらでした。
おまけに訳者としての資質も問われます。
私が英語で手紙を書いたのに通じない箇所があったのです。

アリエールは時々、本当に恐怖を味わったことでしょう。
私が反対の立場でいて、訳者が英語力がないことを発見したら考え込んでしまうことでしょう。
話もときどきあやしい英語になる……変な言い回しを自分で作って手紙を書いてくる……意味不明。彼女はとても心配したことだと思います。

英訳していてだんだん分かったことは、確かに翻訳は英語が堪能でなくてはなりません。
通訳と違ってすぐに日本語が口をついて出るという必要はありません。
でも、日本語で原書のなかに流れるものを感知して、ふさわしい日本語を探す事が大事です。
いきおい日本語の知識が重要になります。
いくらしゃべれても翻訳となると違うことになるのです。

アリエールが不安を感じていたことはあるときよく分かりました。
私は何度かセッションの通訳をしたのですが、ときどき聞き取れなくて何度も尋ねたり、本当に分からないときは辞書を差し出して探してもらったりしたからです。
通訳の場合、そのまま、分からないまま進んで行くととんでもない方向に行ってしまいます。
私は恥じも外聞もなくとにかく、疑問があれば彼女に尋ねました。
そんな訳で彼女を不安がらせたことは事実です。
マヤンオラクルは外人が難しい……と言った本でした。

とくにメタファーが神話や伝説からとられていて、宇宙学みたいな理論があったり聖書のなかの言葉があったり、聖幾何学、物理、あらゆる言葉がでてきました。
その都度、私はいろいろな人々に救いをもとめて助けてもらいました。
本当に不思議なことですが、周りの人々が実に見事なタイミングでその箇所を教えてくれたのでした。

私の娘も例外ではありませんでした。
彼女のすばらしいアドヴアイスは忘れることができません。
母の私から見ても娘は読書家で小さいときから本の虫。
ランドセルを背負って歩きながら本を読んでいました。
コスモで働いていたころ、彼女は大学で演劇を専攻していました。
彼女の書く力と読む力、もちろん話す力は幼いころの読書が原動力になっているとよく思いました。
直観力にもすぐれ、私は何かにつけ一目おいていたのです。

マヤンオラクルの翻訳もやっとワープロに打ち込めるようになったある日、私は数枚の原稿を彼女に渡し、「読んでみて」と言いました。
「面倒だ。この手の文章は苦手だから」「そう、言わずに、読んでみて、たのむよ」やっと彼女が読んでくれることになりました。
いわゆる、魂、宇宙、精神世界、宗教などは彼女に言わせると言葉にすることもない事だというのです。
「今、若い私たちは知っている。感じてもいる。お母さんが分かっていないだけ。それは時代の流れだと思うけど、それをやっと分かったからといって押しつけるのはどうかと思うよ」
そんな事を言ってなかなか原稿を読むのはおろか、相談に乗ってくれることもまれでした。

夜12時ころ、私は「読んでくれた?」と言って彼女の部屋に行きました。ベッドで寝そべっていた彼女は身をおこすと座り直しました。
「お母さん、この本はお母さんが訳すのでなく他の人が訳す本よ。早くやめた方がいい。お母さんは英語で訳しているもの。お母さんの日本語が変なの。恥をかかないうちにやめたほうがいい」ときっぱり言うのです。
猛烈に腹が立ちました。何かセリフを言いたかったのに何も出てきません。「ああ、そうですかね」と吐き出すように言うと、訳の原稿をもってドアを叩きつけるように閉めてアパートを出ました。

悔しくて悔しくてなりませんでした。涙がこぼれました。
(日本語でない。英語で訳している。他の人が訳す本。日本語が変。それにしてもあんな言い方はない。ひどい。ひどい)そんな言葉が浮かんでは消え、また浮かんできました。
そのまま、近くのロイヤルホストに飛び込んで、しばらく座っていました。(今日は帰らない。帰るものか)
自分に腹が立っているのか、娘に腹を立てているのかも分からない状態でした。とにかく彼女が言ったことを反芻し、原稿を読み直しました。
その数ページをとにかく原書で見直しました。
もう一度最初から日本語を見直し、無我夢中で訳し直しました。
訳したものを何度も何度も小さな声で読んでいるうちに、娘が言ったことがよく分かりました。一度直してから娘に読んでもらって、それでもダメなら私は翻訳を降りる……と決めました。

ロイヤルホストを出たのは朝の5時半、そろそろ町は起き出していつもの新聞配達のお兄さんがアパートのエレベーターを出てくるところでした。
私はそっとキイを差し込むとドアをあけて部屋に入りました。
私がいきなり出ていってしまったのに(いつも、こうなんだから)とでも言うように意外に平気そうに娘は眠っていました。
私は彼女の枕もとに原稿をおくと部屋に戻って眠りました。

お茶を飲んでいると娘がきました。「お母さん、昨日どこへ行ってたの。原稿直してきたの?誰かに手伝ってもらってきた?」と言いました。「自分でやったわ。ずっとロイヤルホストに行ってた」その途端、娘は座り直しました。「お母さん。ごめん。やっぱり、この本はお母さんが訳して」と言いました。
私の周りにはどうゆう訳か、ちゃんとサポートする人々が用意されていたのです。これも不思議でした。
詩人、宇宙物理学者、音楽家、編集者、チャネラー、神道を極めた人、聖幾何学を勉強している人などいろいろな分野で地道に活躍している人たちがいました。

翻訳で分からないときは翻訳家の松岡女史に、深夜の電話をかけて教えてもらったりしました。
どうして訳してよいのかまったく分からず1ヵ月も放っておいた単語の訳、これには本当に悩んだのですが、摩呂さんという作家に教えてもらったりしました。
彼は気持ちよく引き受けてくれ、私が原書を送るとすぐに「『衰退』がいいですよ」といって電話をくれました。