2.私の楽しみ
私の楽しみのひとつには読書があります。
いろいろなジャンルの本を読みます。とくに好きなのは推理小説です。
中学校に入った頃、兄の影響でS・S・ヴァンダインの本格推理小説を読み始め、それ以後推理小説のフアンになりました。とくにヴァンスという探偵が大好きで、生涯6冊しか本を書かなかったS・S・ヴァンダインが書く名探偵には特別の感情をもち、今でも彼に会いたいと思っています。
本を読み始めたら止まりません。
とくにお風呂につかって本を読むのは幸せのひとつです。まず、タオルと眼鏡をお風呂のふたにのせます。
タオルは本をのせたり、ページをめくるときに必要です。湯気で眼鏡が曇った場合は眼鏡をお湯にザブリとつけるのですが、そのあと濡れた手を拭うのにタオルはどうしても手元になくてはならないものです。
お風呂用の椅子をうまくおしりで湯船に沈めながらお湯に入ります。浮き上がろうとする小さな椅子にうまく腰をおろさなくてはなりません。
読書の途中、眼鏡をふいたりページを繰るたびにタオルで手をぬぐったり、ときどき肩が冷えるのでお湯をかけてやったりするので、なかなか忙しいのが冬の読書です。換気扇もぶんぶん回します。
ときにはお風呂でみかんを食べたり、コーラをのんだりあられを持ち込んだりします。お風呂読書専用のトレイがあったらいいなあ。
老眼が始まってからはずっと眼鏡をかけている人の苦労が徐々に分かってきました。
娘は大学時代「近眼も身体障害の一種だと思う。年に関係なく動作や考え方に影響するもの。社会でもっと大事に扱ってもらえないものかしら」と言ったことがありました。
娘はごく近くは見えるのに遠くは見えません。
ぼうっとしてかすんでもやの中みたいな状態なのでしょうか?
彼女が裸眼で行動するときは遠くが見える私の方が機敏です。彼女がコンタクトレンズを無くしたり、眼鏡の度が合わなくなったときの行動はどうしてもゆっくりとしたものになり、(どうしてこの子はもっとしゃんしゃん行動できないのか)とよく思いました。
それに目が疲れやすいのでよく眠ります。
コンタクトレンズの着脱も面倒臭そうで、私にはあの一連の儀式は一種の拷問みたいに思えます。
老眼は度させ合えば誰の眼鏡でも使えます。
外出して眼鏡を忘れても、駅の売店には自分に合う眼鏡を買うことができるし、「ちょっと、眼鏡貸して」といって人に借りることもできるのです。
近眼の人は度が合うからといって眼鏡を忘れたら怖くて外が歩けないかもしれません。