4.転校生
小四のとき、家族は疎開先の親類の家をやっと出て、「柳ヶ瀬ブルース」で有名になった柳ヶ瀬にごく近い西園町に土地を買い、新しい印刷所を建てました。
花柳界の真ん中に薄緑のペンキを塗った印刷屋が開店しました。
隣には長唄の杵屋六勢津師匠、角の珈琲屋は新内の師匠がやっていました。 芸者の置き屋がずらりと立ち並び、時々、県知事がお忍びで来る料亭や「森繁さん」が岐阜に来ると必ず立ち寄るという料亭がありました。
妹の友人晶子ちゃんのお母さんは西川流のお師匠さん、町内には当時では話題になった総檜づくりの倹番が建ったばかりでした。
朝から番まで私の家の印刷機に張り合うように、隣の家から三味線の音と長唄が聞こえてきました。知らない間に口三味線ができるようになってしまいました。西園町はなかなかユニークな街です。
この町は不思議なことにロダンの花子像で有名な腹きり女優が晩年住んだ町で、花子の甥は私の高校三年のときの受け持ちであった英語教師、沢田助太郎氏だったということをつい5、6年前に知りました。
「プチアナコ」という著書が県民文化賞を受賞し、最近では漫画本になりました。その街ではお正月になると日本髪にお米のカンザシをさして、「今年もよろしくお願いします」ときれいどころが挨拶回りをしました。
小ぎれいで粋な町ではありました。
私の弟と妹は二卵性双生児でした。
二人は私の転校と同時に明徳小学校に入学しました。
父親は母に印刷の仕事をまかせて三人の学校関係の行事にはすべてに参加するようになりました。教育ママならぬ教育パパでした。
得意のカメラで学校行事を写していました。私はいつも母がPTAに来てくれたらいいと思いました。
私と一緒に転校した恵美ちゃんは、栄文堂書店の三人姉妹の末っ子。
私とは一番の仲良しと同時にライバルでもありました。
四年生のときから六年生まで同じクラスでした。さらに中学も高校も。
私と違って恵美ちゃんは優しくおとなしい子でした。
品のよい面立ちのきれいな子です。彼女は男子生徒にもてました。一緒に転校してきたのでいつも二人は仲良しでしたが、私はもてなかったので悔しい思いをしたこともありました。何かにつけて私と恵美ちゃんは転校生ということで比較されたり、ときによっては私一人がのけ者になったりしました。
モダンバレーと歌の勉強
モダンバレーの先生は「リベラル」と呼ばれた高校の体育の先生でした。
彼女は級友の永田君のお母さん。
彼女はちゃんとしたモダンバレーを教えていたのですが、男の子たちがストリップの別称「リベラルショウ」をもじって「リベラル」と命名し馬鹿にしていました。私は小四から中学入学寸前までそのバレー教室に通いました。
音楽の先生は桑原哲郎という作曲家でした。
その先生がNHKテレビドラマ「鳩子の海」の音楽担当をした桑原研郎の父親であるのがわかったのは結婚したばかりのころでした。
優しくて笑顔のすてきな人でした。
終戦後だったから、東京の先生が疎開して名古屋に住んでいました。
毎週、日曜日は先生のピアノで歌を歌うのが楽しみでした。先生は音楽室のシューベルトの写真に似ていました。面立ちのやさしい人でした。
発声練習を中心に童謡をひとりひとりが独唱しました。歌の詩をうっとりとした表情で解説し、一節ごと「ここは、こんな気持ちで歌いましょう。そう、その『ああ、そうだよお』はとくにていねいに歌います。『あかしあーの』は一字一字を後ろに引っ張って行くみたいにふくらませてね。」という感じで教えてくれました。
歌と踊りの楽しさは可哀相な私を少しづつ癒して行きました。それでも歌手になりたいとは思っていなかったようです。その頃はひばりちゃんがデビューしたころでした。
歌の教室では川田正子や孝子があこがれのまとでした。私は漠然とデザイナーになりたいとか、新聞記者になりたいと思っていた頃でした。父が私を歌手にする夢をそろそろあきらめるようになったのは中学に入学した夏のことでした。中学二年のときに県の水泳大会で私が二位になったことで、ぷっつり歌のことは言わなくなりました。のど自慢にもでなくてよくなりました。
人生とは自分がほんとうに好きなことを見つける旅です。
私は?歳になった今も果たしてこれが本当に自分の好きなことだろうかという疑問を絶えず持って生きています。
実際、人間のあきっぽさ、とくに自分のあきっぽさには困ってしまいます。 一定の時間は持続するのですがすぐにあきてしまいます。
人間の人生は変化に富んでいます。
よく「心ころころ」と言いますが本当にそうです。