6.私の結婚生活

夢のように楽しい暮らしができるはずだった結婚……は、いつの頃からか夫と私の歯車がほんのわずかづつずれ始めます。
夫と私の価値観のづれ、生活習慣の違い、育った場所の違い、家族の考え方などが結婚という現場に入ると問題として大きく浮上してくるものです。
お互いが相手を受け入れているときはよいのですが、しばらくすると相手を冷静に観察するようになった挙句、お互いが評論家になってしまうのです。

そうなると結婚生活に「我慢する」というおそろしく重い錨を深く深く降ろすことになってしまいます。
次男が生まれて7ヵ月目、私は泣く泣く岐阜を離れて香川県に住むことになるのです。
「思いは必ず実現する」。恐ろしいことにこのことも初恋の相手に失恋したとき、「私は遠いところに行くんだ。島の分教場で英語を教えて初恋の人のことを思いながら寂しい一生をその島で送るんだ」などと思ったことがあったのでした。まだ瀬戸大橋もなく十時間かかって四国にわたっていたころです。

とにかく潜在意識はまじめです。
何でもインプットしてしまいます。
下手なことを思おうものなら大変です。潜在意識は実現にむけてエネルギーに命令を下してしまうからです。
まさか……ということが起こるのも知らぬ間にしたインプットが原因です。 とにかく思うことはものごとを創ります。創る力があるのです。それに言葉はある意味で枠をも創ります。本当に気をつけたいものです。

夫は香川県生まれの人です。
私と結婚するときは岐阜の工場で働いていました。「ああ、ぼくは岐阜に骨をうめることになるのか」という独白みたいな一言を私は本気にしてしまっていました。私は、ずっと岐阜に住んで母の面倒を見るものと思っていました。

彼は岐阜にいるころよく東京に出張していました。
ある日「今度四国に出張するから二軒分のおみやげを頼む」と言いました。(どうして急に四国なんだろう)と私は不審に思ったのですが、深く考えることもなく夫を送り出しました。
一週間の出張から帰ると「これ、社宅。一ヵ月後に移動する」といって四国の工場の社宅の見取図を、ばさっと投げてよこしました。

私たちの溝がいっきに深まったのはそのときからでした。
夫はひそかに会社に転勤願いを出していたようでした。3年間に渡って年末調書に希望を書いて提出していたのです。
目の前が真っ暗でした。五歳の長男と七ヵ月の次男を連れて四国に渡ったのは昭和47年のことでした。
坂出には19年間住むことになります。坂出の社宅は山のふもとにありました。バス停からは田舎道を歩いて30分。町に出るにはタクシーか、一日に二回出るお買物バスしかありませんでした。
やっと夫が車の免許をとったときは本当にほっとしました。ところが今度は週末の実家訪問が当たり前になりました。

よそ者の嫁は義母にとってはうとましい存在でした。
男の子2人と女の子を連れていっても一度もだっこしてくれなかった義母でした。妹の子どもたちはいつも大事にされていて、「やかましい」といって長男をげんこで殴った義父を見て私はほんとうにがっかりしました。

私が所属していた修養団体では「夫は神」でした。私は慣れない土地での、しかも田舎の暮らしに疲れ果て、(神さまなんているものか……どうしてこんなに不幸なんだ。夫は『我慢せい』というばかり。私の人生はこんなはずじゃなかったのに……どうすればいいんだ。早く本州に戻りたい。早く岐阜に戻りたい)朝から晩までそんなことを考えていました。

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