8.名古屋への転勤
末の娘が中学生になって間もなくやっと念願かなって四国から名古屋に転勤になりました。
ところが学校の都合もあって彼は単身赴任のかたちで名古屋に行きました。
それから4年間私は父親と母親を兼任しました。
夫がもどるのは盆と正月。
電話はほとんどかからりませんでした。この四年間は人生のうちでもとても楽しかったときでした。同じ屋根の下で孤独を感じなくてすみました。
末の娘が高校を入試するとき、私と娘は名古屋に移動しました。4年間の別居生活で、さらにちぐはぐになった二人の関係は相変わらずだということが分かったのですが、やはり私の中で自分自立しないかぎり離婚はできないという思いがありました。とくに子どもが東京の大学に入学が決まると私と夫との2人の生活が始まります。それが嫌でした。
私は夫といっしょにいるのが嫌でした。
2人だけでご飯を食べることもいやでした。
彼の毎朝、忙しそうに歯を磨く音も、ドライヤーから伝わってくる匂いも、歩く気配もすべてが嫌でした。これはきっと私だけの問題でなく彼も私のことを嫌いだったと思います。
名古屋ではなるべく家を離れていたくて、名古屋に住むとすぐに新聞広告で子どもの英会話スクールの講師に応募して中心部のビルに通いました。
四国でしていた、ハンガープロジェクトのボランティア活動をも再開しました。ボランティア活動で知り合った久美さんは、そのころ交際が始まった男性の仕事を手伝うために上京し彼と一緒に暮らし始めたところでした。
彼女からあるとき仕事の誘いを受けました。
ディズニーの英語教材を販売する営業の仕事でした。
夫はもちろん大反対でした。私は強引に自分の意志を主張しました。
「とにかく一度東京の生活がしたい。子ども3人を育て上げやっと自分という人間が何かできるチャンスが巡ってきた。子どもは大学、私も一度でいいから仕事がしたい」と心から訴えましたが中々うんといいませんでした。
「あんたの言ってることは常識から大きくはずれとる。どこの奥さんでも言うことならウンと言えるが、あんたの場合は間違っとる」と言ったまま押し黙ってしまいます。
もう、夫婦の関係も十年近くない状態でした。私はいつも夫婦というものが中心になって家族があると思っていました。夫婦の愛情がなくなったら別れるべきだとも。
それでも3人の子どもを育て上げなくてはならない。いったん、嫁いだからには我慢して一生を送る……そのころはそれが当たり前の考え方でした。私はその考えに我慢できなかったのです。
「我慢することは決して美徳ではありません」。
私はあるセミナーに出てからは自分の思いが物事を決める。しかも自分がどんなことをも選択していくものだということをしっかり理解しました。
我慢することがすばらしいことだとは思えなくなりました。それに価値のあることだとも思えなくなったのです。
それまでは、こうでなくてはいけない……と自分をその鋳型にはめようとしました。まるでテレビにでてくるような幸せな家族でなくてはならない、それからはずれているのであれば、何とかしてよい方向にゆかねば……よい妻よい母になることこそ、幸せへの道だと本当に思っていました。